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  • 医療法人六峯会 近藤歯科医院
  • ■住所:岡山県倉敷市新田2780-1
  • ■電話番号:086-422-7133
  • ■ファックス:086-423-2337
  • ■Mail:kondo@mutu.jp
  • ■休診日:木午後・日・祝
  • ■診療時間
  •  AM9:00~12:30
     PM2:00~6:00

  • 中帯江信用組合
    •  場所
    中帯江423 近藤寛三郎 敷地内納屋(組合で建築)及び自宅
    •  期間
     昭和 5 年~昭和 15 年
    •  組合長
     近藤寛三郎(昭和 5 年 3 月豊洲小学校教員退職直後より昭和 15 年廃止まで)
    •  設立の目的と当時の社会情勢
    第一次世界大戦(大正 3 年~大正 8 年)後の好景気の後は、金融恐慌の時代といわれ、不況で、都市では銀行の取り付け騒ぎまで起きた。(昭和 2 年~昭和 8 年頃)
    このような社会情勢の中にあって、農村の経済活動は活発で、銀行に頼らず農家が自主的に組合をつくって、生活必需品や農業資材の購入、販売、組合員に対する小口融資まで取り扱うようになった。(大正八年政府通達により全国的となり、今日の農業協同組合の母体)
    豊洲は、米麦の外に藺草、畳表を多く産し、肥料、生活用品の購買意欲が盛んであったが、早島の経済圏内で、商店がなく生活が不便であった為、中帯江、五日市の有志が相計り、信用組合をつくって、小さいながらも独立採算制をとっていた。他に高須賀に同じようなものがあった。
    発起人は中帯江の大森序一郎、永瀬吾一(丁前)、五日市の大崎由太郎(米穀検査委員、昭和 13 年没)の名が上がっているが、資料が無いので不確かである。
    尚、大崎由太郎は中帯江信用組合と同じ業務をしていたとか。
    •  物品取扱者
      寛三郎は主として帳簿、物品は妻と娘が取り扱った。次男(中学二年)は、夜酒飲みが表戸をたたき暴れて恐ろしかったのを覚えている。後述のようなエピソードもある。
    •  取扱物品 
    醤油、酒、酢、砂糖、菓子、豆粕  *現存する十石入り醤油樽、大はかり等が当時を物語る<写真>
      納屋南の軒下に、常に大八車が置いてあり、夜中でも早島汐川から丁前まで豆粕(藺草用肥料)が来ると、大八車で取りに行った。
    又小学校の貯金を集める仲介をしており、小学校に持って行ったとも聞いたが、詳細を覚えている人も無く、よくわからない。
    •  取扱方法
    現金売りもしていたらしいが、主として通帳による掛売りで、盆と正月に(藺草代金や米代金で支払ったらしい)清算していたが、借金が残る人もあった。
    •  監査
    年二回、盆と正月には早島から会計士が来て、一日中帳簿を調べていた。
    •  廃止
    日中戦争開始(昭和十二年)後、政府によって軍備拡張の必要から民需品の生産や輸入が制限され、昭和十五年、砂糖、マッチ、米などが配給制となり、又他の日用品の統制も厳しくなり、販売用品が入手出来なくなった。
    又農村も徴用による人手不足、資材の不足などから、米、藺草の生産が減少し、不況となったため、掛け金の回収が滞り、遂に運営不能となって、昭和十五年廃止となった。
    結末については資料が残っていないので不明であるが、迷惑を被った人もあるに違いない。納屋は近藤家に譲渡されている。
    寛三郎は、その後納屋で動力機一台を置き、ゴザを織っていたが、昭和二十七年四月没。
     *故人西野徹男さんが、私の診療所で治療を受けていた時の話です。(昭和六十年頃)
    「私は先生のお爺さん、寛三郎先生に名前をつけて頂きました。今でもこの事を誇りに思っています。私の一番の想い出は小学校二年の頃先生方(信用)に親のいいつけで、一升瓶をさげて酒を買いに行き、帰りがけ(多分セノカミ辺り)転んで酒をこぼしてしまいました。泣いていたら寛三郎先生が「男の子は泣くんではない!」と叱りつけ、黙って又お酒を入れてくれ「これで帰りなさい」と言ってくれた事があります。今でもよく覚えています。先生は村一番の教養人で、私以外にも多くの人が先生に命名していただいたと思います」

    <寛三郎の孫 近藤修六談>

    10、併設されていたもの
    •  郵便切手類売りさばき業務
    郵政省より委託され、郵便切手とハガキを売っていた。
    昭和四十九年まで続けた。
    ナガセショップが出来たので、その業務を譲った。
    当時倉敷郵便局長より感謝状をもらった。
    •  警察官立寄所
    郵便ポストと並んで、警襴箱が掛かっており、一週間に何回か警官が村内見回り際立ち寄って印をつけて帰っていた。地域は平穏で犯罪も無かったせいか、西田の派出所が無駐となると同時に無くなった。
     
    <写真>
    No.1 現存する醤油樽
    現存する醤油樽クリックで拡大          
    No.2 秤
    秤 クリックで拡大 クリックで拡大