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私が女高師家事科(後に家政科と改称)に入学したのは、昭和15年4月でした。
初めての東京、そして寮生活でした。
私の入った第一寄宿舎(旧寮)はグランドが見渡せる高台にあり、各棟に蘭、竹、梅、菊と優雅な名前が付いており、建築当時(昭和8年頃)は東洋の学生寮と言われていたとか。
本校から玄関に至るスロープには、春ともなれば沈丁花が薫り、桜の花が咲き揃いました。
食堂のテラスからは護国寺の青い屋根が見え、早朝にはケーン、ケーンという雉の声を耳にするほど、閑静な環境でした。
各部屋の間取りは下図のようだったと記憶していますが、各学科、各学年で構成された8人が家族のように生活しました。
室長の家事科4年の新潟美人が「パパ」、しっかり者の札幌出身の文科3年生が「ママ」。 そして私は「おじいちゃん」。 岡山弁で「~じゃ」「なあ」と言ったことから。 お姉さんのメチ子さん(目が小さいから)は東京出身で、センス抜群、絵、ピアノ、運動、何でも出来てスリッパから袋物まで刺繍を入れて皆に羨ましがられていました。 (現在ファブリックアーティストとして活躍中。) 髪は入学早々から女高師まげ。 制服用の紺スーツが5円、授業料なし。 寮費20円、1ヶ月40円余りで十分でした。 入学の年の秋、紀元2600年式典があり、花電車、提灯行列が正門前を通り、寮のお祝いに紀元2600年史の演劇をしたり、まだ華やいだ雰囲気が残っていました。 翌16年12月18日、宣戦布告を朝まだ暗い食堂で聞き、身の引き締まるのを覚えています。 戦争が進むにつれて、食糧も次第に不足してきましたが、お汁粉やケーキの情報はいち早く伝わり、少々遠くても買ってきて皆で分け合いました。 寮でも週1回は梅干デー(実はお豆腐)、兎肉入りすいとん、カボチャ入り蒸しパンなど。 然しご飯は何とか足りて栄養不足にはなりませんでした。 休暇あけの楽しみはお部屋会、トランプ、歌に興じ、時には文学や人生論に花を咲かせました。 そして、皆良く勉強し、「廊勉」は有名で、お廻りの舎監先生に叱られるのでした。 舎監先生と言えば、厳しい門限やお掃除、作法など、今は懐かしい思い出です。 昭和18年9月27日、私は半年の繰上げ卒業で島根県松江市立高女に赴任しました。 今年は卒業50周年に当たり、来る10月14日、4科合同の同窓会に上京します。 私は青春の全てであった女高師の、あの高台にもう一度立ってみようと思います。 グランドの東端に第2寄宿舎(新寮)が有り、昭和20年4月13日、第1寄宿舎は5月25日、いづれも空襲で全焼しました。 写真1、クラスの皆と旅行した時 写真2、香淳皇后が講義を視察に来た時で、最前列の席でしたが最敬礼をしてお迎えしました 写真3、校舎前でクラス写真です。 後ろの建物は現在も文化的建築物として保存されています。 ( http://maskweb.jp/b_ocha_1_1.html ) 前列中央が当時の成田順先生で、 後に文部省で戦後の家政教育に大きな影響を与えた方です。 注:東京女子高等師範学校は現在のお茶ノ水女子大学で、当時の女性は大学には進学できなかったため、女高師が当時の女性の最高学府でした。 |