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◆鉱山の起源◆ 中帯江の北部丘陵地帯に銅の鉱石が眠っている事は古くから知られており、 天平勝宝4年(752)奈良の東大寺大仏鋳造に使われたと言われている。 標高僅か100m程度にすぎないが、かつては宝の山であった。 この丘陵では江戸時代にも銅鉱石の採鉱が行われていた事が記録に残されている。 ◆鉱山の開発◆ 明治時代になると、政府の政策で藩の直営であった鉱業を民間に解放し、 誰でも一定の手続きを踏めば、鉱業を営めるようになった。(明治6年 日本鉱法) ◎ 明治5年、中帯江 種野(くさの)誠一が、金田地区裏山で初めて開鉱(金才坑) ◎ 中庄村 古谷亀賬治(きしんじ)、別府元太郎が開鉱(猿曳(さるひき)坑、鳥羽坑) ◎黒崎村 難波農治(のうぢ)が開鉱(金堀坑) この地帯は小丘陵であるにもかかわらず、岡山・倉敷に近く、又当時藤田は海であったが、 六間川を経て児島湾奥の彦崎港に通じる船便がある。 大半の鉱山は交通不便な山奥にあるのとは大違いで、 全国的にもこれ程好位置にある鉱山は珍しいと日本鉱山誌にも記されている。 明治10年頃は開発ブームで、激しい競争があり、 次第に地元以外の鉱業者が主役を占めるようになり、その中に三菱もあった。 ◆帯江鉱山の発展◆ 明治24年岡山の坂本金弥が、三菱より買収したのを皮切りに、 周辺の小鉱山を次々買収して一本化し、「帯江鉱山」と名づけた。 その理由は明らかでないが、中帯江村が江戸時代から続いていた村名で鉱山のあった丘陵やその周辺を一般に「帯江」と呼んでいたからと推察される。 坂本金弥は進歩的な考えを持った人物で、経営を始めてから、人力から機械化を進め、 鉱石や湧き水の運搬にはトロッコを使い、蒸気機関で動く巻き上げ機、 動力で動く送風機を使った洋式溶鉱炉などを設けた。 六軒川のほとりに、鉱山専用の船着場があり、これ等の資材はトロッコで山に運んだ。 電力は福島の自家発電所から供給された。(今は面影も無い) こうして規模を拡大した帯江鉱山は、銅の採収量や収益は明治40年には最高に達した。 当地の粗銅は大阪で更に精錬して、商社を通じて輸出された。他に、銀、鉛も採れていた。 鉱山の労働者は全国各地から来ていたが、四国・九州・新潟県や青森県からも来ていて、 1100名以上に及んでいた。農閑期には地元の人も働きに行った。 大寺や黒崎辺りに(現在倉敷自動車学校下に跡地がある)社宅があり、 号令長屋と呼ばれていた飯場もあり、朝早くから班長の大声が“西の院”にも聞こえたとか。 日常の生活用品は、鉱山の調達部で間に合ったが、周辺には小料理屋や食料品店が出来、 市街地よりも3年程早く、電灯がつき、賑わっていたとか。 中帯江でも、鉱山と関わって商売をしたり、定住する人も出てきた。 従業員達の中にも、休日には倉敷市内の小料理屋に繰り込んで、派手に遊んだ者もいたらしい。 百姓の人夫賃15銭位の時、鉱山では、日當平均で30銭から70銭位の時代である。 周辺の文化 鉱山の南側は景光山不洗観音寺をはじめ貴船神社、いぼ神様など、 古くから庶民の信仰の山と成っている。鉱山のあちこちには十一面観音像が建っており、 “くわんのんみち”と刻まれた石柱が、周辺の村々に残っている。 特に観音寺は鉱山が発展するにつれ、参拝者も多くなって、中帯江参道の両側には、 旅館や商店も出来て賑わった。 鉱山開発者 難波農治ら寄贈の石燈籠、 富田唯八や周辺住民寄贈による玉垣の石柱などが昔をしのばせる。 又観音寺周辺には、何人かの腕のいい宮大工が住んでいた。 寺は明治初期廃仏毀釈で荒れていたのを、再興する途上にあったので、 彼らは境内の回廊をはじめ、各種御堂建築に尽力した(林萬五郎ら)。 当時備中南部では庶民文芸として、俳句や連歌が盛んであった。 明治28年坂本金弥に招かれて、鉱山の経理を統括していた近藤鍬之介(俳号 未来庵白骨)は、 鉱山関係者や周辺の福島・黒崎・鳥羽・中庄・中帯江の俳句社中を指導した。 詠歌社中という石柱を観音寺石段脇に見ることが出来る。 明治37年、盛大に立机式(句会)をあげた時の選句が鍬之介の筆によって書かれ、 その額が現在も、観音寺回廊正面に残っている。 クリックで拡大 公害と労働災害 ◆煙害◆ 鉱山繁栄の陰で忘れてならないのは、公害である。 鉱山は精錬もしていたから、排出される硫黄分の多いガスのため、 周辺の山は松が枯れてハゲ山となったり、黒崎・鳥羽・仁部方面では稲の減収、 藺草の先枯れ、魚が死ぬなど、大気、水、田畑が汚染された。 特に中庄村側が深刻であったため、明治30年頃の記録では、村議会と補償問題が起きてい る。 南側の中帯江には、そういう話は残っていないが、住民は精錬所の移転を求めた。 鉱山は明治41年、個人経営から坂本合資会社とし、明治42年精錬所は犬島に移転した。 ハゲ山となったのは、燃料に使うため、松を採り続けた事も原因である。 ◆労働事故◆ 最も大きいのは、富田唯八の落盤事故と言われている。 明治5年彼は古谷氏に招かれて、中庄猿曳坑を発見したが、 明治15年事故死する。不洗観音寺西塀の外に、亀の上に乗った奇妙な墓がある。 碑文に詳しく鉱山師の心意気が書かれている。 その他にも、事故や争いなどで、命を落とした人もあった。 西の院境内に、今も残っている弔魂碑は、明治42年頃建てられたらしいが、 台座に刻まれている氏名は当時の班長とか。然し殆ど他県の人で、住所不明で訪れる人もいない。 平成4年西の院では、帯江鉱山関係者や地元の人達で供養式を挙げ、碑を建てたのが、現在残っている。 又、現在のゴルフ場内にも、供養塔を建て、従業員やプレーヤー達が、折りに触れ手を合わせ、花をそえている。 ◆疾病など◆ 坑内の重労働では、呼吸器病、怪我などが多かったようだが、 会社は常時医師2名いて、会社の費用で早期に療養させるので、大患に至らずと、資料に残っている。 但し、観音寺の壁には当時の悲惨な状況を物語る落書きが残っていたとの話だが、今は消されて無い。 ◆閉山とその後◆ 大正期に入ると、産出量の減少などにより経営難となる。 大正2年 藤田組に売却 大正8年 操業停止 昭和5年11月陸軍特別大演習地となり、天皇の行幸があった。 その頃には、山にも小松が生え、山つつじが美しく咲き、つつじ山と言われた。 周辺の村人は弁当持ちで、山登りを楽しみ、三味線や太鼓の音も聞こえ、春の山は賑やかであった。 小学生の遠足地ともなった。 児島虎次郎の絵「酒津の農夫」「酒津の秋」には、煙突が2本描かれているが、 小さいほうが先に倒され、後の1本は太平洋戦争中爆撃の目標となるので倒され、鉱山のシンボルは消えた。 戦争中は軍部の要請で、藤田組が小規模に再開したが、本格操業には至らなかった。 昭和9年 完全に閉山、その後一時採鉱を試みたこともあるが完全休眠で藤田組は名称を同和鉱業と企業名を変えた。 昭和28年 同和鉱業用地を中心に地元地権者の協力を得て、 帯江鉱山の跡地は岡山ゴルフ倶楽部として県下二番目のゴルフ場としてオープンする。 坑道は埋め立てられ、整備され、美しい芝生となった。 昭和35年頃には、まだゴルフ場南斜面、現在のゴルフ練習場の下、 観音寺駐車場の北には、横穴式の坑道が三つ残っていた。子供達の格好の探検場であったとか。 中の底知れぬ竪穴に、水がたまり、奥は岩盤に着きあったって、行き止まり。 不気味で怖かったと、言っている。現在はどこか跡形も無い。(深いところで253mという) 帯江鉱山はこうした1世紀以上の歴史を秘めたまま、平和な現在に生かされている。
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