旧豊洲村は南北に長い村である。
北は帯江銅山、不洗観音寺のある丘陵のすそから南は県道を越えた新田開墾の西田、高須賀辺りまで広がっているから、村人の暮らしぶりも南北では大分違っている。
中帯江は山すそに人家が密集しているので、山の恩恵を受け、山との関わりも深い。
先ず水である。山から流れでる水脈があるせいか、いい水の出る井戸が何箇所かあった。
然し水脈から外れると、塩分があったり、濁ったりするので、共同井戸(セノカミの大井戸はその代表)や、もよりのいい水の出る井戸へ飲み水をもらいに行った。
私(84才)が嫁いで来た昭和21年(1946)当時は、村には水道がなかった。隣接の早島町金田地区にはすでに水道が引かれていたので、実に田舎だと思った。飲み水をつるべ釣瓶で汲み上げ、前後の水桶一杯にして、オーコで担いで、台所の水がめまで運ぶ。老人には無理で、若い男の仕事であった。風呂水となると大変で、近い古井戸の水も利用した。
台所のかまどは、大抵の家では、れんが煉瓦で築き日常炊飯、料理等に使用した。燃料は割り木(松・かし樫)焚きつけには、マツゴ、マツバ等を使った。割り木作りは冬の男の仕事、マツバ拾い、マツゴかきは女性の仕事である。
十一月ともなれば、年寄りのおばさん達は、近所の人達と連れたって山へ出かけ、日の暮れるまで働く。その間のおしゃべりも楽しいものらしい。マツゴを上手に四角に積んで、縄で縛り、背中に負う。小柄な女性に大きな荷物がよく担げるものだと感心するが、日頃の労働で体力もついていたのだろう。何束も持ち帰って、家の軒ばへ重ねておき、一年中、かまどや風呂の燃料として使う。風呂だきには、むぎわら麦藁もよく使った。
山の恵みといえば、秋のきのこ茸狩りである。
銅山跡やお寺周辺の山では、松茸、シメジ、初茸、ヌメタケ(ナメコ)アミ茸など沢山とれたが、松茸の巣などと言って、よく採れる場所は秘密で教えてもらえなかった。リュウグンケイなどと言っていたが? 松茸2~3本も採れれば大いばりで夕飯のご馳走。アミ茸は干して、五目飯などに入れた。その頃、しいたけ椎茸の栽培は聞いた事がない。赤松が松くい虫で枯れて、茸もいつ頃からか採れなくなり、現在では殆どみかけない。
農家の台所(かまや釜屋といわれた別棟も多い)には、土または後煉瓦となったカマドがでんと座っていた。
別に七輪(コンロ)があり、薪のおきで魚を焼いたり、お茶を沸かした。炭つぼがあり、消炭を作ったり、ともかく燃料は大切に使い切ったものだ。正月の餅つき、慶事の赤飯蒸しは台所の大仕事である。
また寒に入ると(旧正月の餅つきと一緒にする事が多い)カキ餅、だんご(屑米粉を使う)をつくる家庭もある。カキ餅には、大豆、ゴマ、青海苔、黒砂糖などを入れて、栄養と風味のある各家庭独自のものを楽しんだ。薄く切ったカキ餅を座敷いっぱいに広げ、平らになるように時々裏返すのも一仕事。パリパリに乾燥したカキ餅はブリキ缶などに入れて保存し、春頃までの子供のおやつに重宝した。火鉢を囲み、金網の上で、火箸で広げながら、コンガリと焼く。その美味しさはおやつの乏しかった時代、農村の子供達のおふくろの味として今でも忘れ難い。
中帯江の暮らしで、一番困ったことは交通不便で、駅に遠いことである。足には徒歩か自転車であるが、終戦直後は自転車が入手出来ず、やっと手に入れた中古車でも、空気を入れるタイヤでなく、三輪車のようなゴム輪、ガタガタ音がして、中々進まないひどいものであった。
衣服は、終戦中はモンペが必需品であった。手持ちの木綿絣や、絹物でも丈夫なめいせん銘仙の和服からつくり変えられ、活動に便利であったから、日常着から外出着まで、幅広く用いられた。戦後はアメリカの影響で、スマートで活動的な洋服が主流となり、洋裁は嫁入り前の女性の必修であった。嫁入り道具の中には、ミシンが加えられた。布地に化繊やレイヨンが混ざり、自分や子供達の着るものは、手作りしたものだ。
このような農村の暮らしは、戦前から続いていたもので如何にものどかなようであるが、改めて終戦直後を振り返ってみよう。
昭和20年(1945)8月15日、太平洋戦争終結後はインフレによる物価高騰と食料・衣類・日用品などの物質不足で、生活の苦しさは深刻であった。政府は21年2月、インフレ防止の為、預金封鎖と新円切り替えの金融緊急措置令を出したが、物価の上昇は止まらなかった。
例えば、公務員の給与100円は翌21年に1,300~1,600円。100円の訪問着は2,000円と物価は一年間に10倍以上にはね上がった。
尚、衣類は戦時中は衣料切符で、絹の銘仙が一反10円程の公定価額であったが、ぜいたく品禁止で、嫁入り用訪問着などは闇値で高かった。米は戦時中一人一日約2合の配給制が戦後も続いていたが、昭和21年には、米の不作、復員兵士や引揚者で一層都会は米不足が深刻で「米よこせ運動」 食料メーデーが起こった。
農村でも供出米強要で、自家保有米は少なく、非農家は買出し、(いわゆる闇米)に行ったり、衣類と交換して手に入れたりした。そして荒地をひら拓いて、さつまいも・かぼちゃ・豆類を(都会では校庭にまで)作った。銀メシと称せられる白米メシは子供達には羨望的であった。
また、乳児にはミルクと砂糖が配給されたが、少量であった為、母子共に栄養不良に陥った。現在の団塊世代(昭和21~24年生まれ)への影響が多かったであろう。
私の長男は昭和24年生まれ、母乳不足の為、やぎ山羊を飼って乳を搾って与えたり、餅米粉のおもゆ重湯の中に配給のミルクを入れて、増量して与えたり、栄養を保つのに苦心した。まして都会の子育ては大変だったろうと想像する。
昭和21年10月、農地法改正、自作農創設特別措置法により、村内に不在地主はなくなり、村の地主も一人6反以外は、政府が強制的に買い上げ、安く小作農に払い下げた。
従って、村内は殆ど自作農となり、生産性向上に努めたため、ゆとりある経済状態となった。
30年以降高度成長期に入ると、農業以外の職業を持ち、経済的に豊かな農村となった。その頃から村の暮らしも一変し、電気釜を始めとし、「三種の神器」といわれた電気洗濯機・
冷蔵庫・テレビが、各家に備えられ、燃料ではプロパンガスが使われ、台所からはあの大きなカマドは姿を消した。
こうして今日では、各戸・各人自動車を持つなど、都会と大差ない便利で、快適な暮らしとなったが、これも人々の勤勉と努力、それに大いなる自然の恵み、更には戦争のない平和な時代のおかげと、しみじみ思う次第である。
<記憶と高校歴史教科書による>
平成18年(2006)一月 近藤綾子(大正11年生まれ)
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